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物件に罪はない

物に罪はないとはよく言ったもので、なぜ物に罪がないかは単純に人格がないからだ。

悪意もなければ、とがめるところもない。物としてそこに存在し、人格のない何かとして認識される。

と言う事でもちろん物件にも罪はない。物件に満足がいかなくても、物件に人格はなく、罪は作り手にある。

ただその作り手と話すと咎められないところが度々ある。なぜならフィリピンでは作り手も若干物に近い。私が満足いかない物件と言うが、彼等のスタンダードで彼等の感覚からするとオッケーなのだ。ミクロで見ようがマクロで見ようが社長も社員も現場作業員もそれでいいと思ってる。そう言われたらそれ以上は何も言えない。

結局最終的に問題なのは私の感覚のズレで

私は職業柄自分で作った物には愛情を持っている。自分がクリエイションした家具なりを非難されれば悲しいし、褒められれば嬉しい。

ただフィリピン人にこの感覚は押し付けられない。この国で物に神は宿らないし、多分みんな宿って欲しいとも思わない。良い物を作りたいとも思わない。頑張っても社長以下の人間に何の恩恵がないからだ

その理屈は恩恵もないのに愛社心を持って頑張れるに日本人よりはぶっちゃけ理解出来る。

要は彼等がやってるのはプロダクションでそこに感情はなく、私が勝手にそのデベロッパーに対して作り手なのだからクリエイションだと思って仕事をして欲しいと願いっていただけで、現実として物に近い組織が物を作ってる。

だから個人的に私の感覚でダメだと感じる物件は最初からそう思われる物件としてプラニングされ最終的に見事そう思われる物件として存在している。最初から最後まで彼等はズレていない。


じゃあ何でみんなが東南アジア不動産投資で失敗したとか詐欺られた、損したってなるかのメカニズムを次回「金の物件。銅の物件。」、次次回「I wanna be adored.」でご説明します。




By sakurazawa

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